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●机
木製机。左右の幅はかなり長く、奥行きもあり存在感のある机。
Y.Matsumoto氏は色を塗り直して使用しています。
●手の形をしたクリップ(写真・右)
「いただきもののようです」とY.Matsumoto氏。ずっしりと重く、文鎮の役割も果たします。
●パーカーのボールペン(写真・中央)
Y.Matsumoto氏はお父さまから金・銀の2種をいただいたそうですが、
いつの間にか“金”の方が行方不明に。
それ以降は社長室内のみでの使用にしている門外不出のペン。
●トレイ(写真・左)
台湾旅行で購入されたものとのこと。オリエンタルな彫刻が施されています。
お父様は買い物が好きで、人にプレゼントすることが大好きでいらしたそうです。
●祖父の実印
印の周りに辰が彫られています(祖父もY.Matsumoto氏も干支は辰)。
周囲が少し欠けてしまっている様子から永年使用していた形跡が伺えます。
祖父から伝わるものは、ヒスイの羽織紐とこの水晶の実印のみ。
お父さまの形見でもありますので、ヒスイの羽織紐の方は
Y.Matsumoto氏のお母さまがお持ちになられているそうです。

●サイドボード
●ロッカー
あまりに大きなものの為、まだ手をつけることが出来ていない状態。
旧本社屋の旧社長室に置いたままだそうです。

 Y.Matsumoto氏のお父様(K.Matsumoto 氏)についてのお話を『D社 創立50年史』でY.Matsumoto氏執筆の“父の思い出話から。”と“父との思い出。”よりご紹介させていただきます。(一部抜粋)

 父の人柄・性格を語る上で、必ず出て来る事柄に「外地生まれ」「外地育ち」があります。細かい事に拘らない、おおらかな性格、明るい外交的性質は、台湾の明るく温暖な気候・風土から培われた物も、多分にあったのではないかと思います。多少おっちょこちょいで、早とちりで、いい加減な所もありましたが、ご愛敬でした。でもその裏に、極めて繊細な神経と、他の人を思いやる優しい心を併せ持った人でもありました。そして姿勢は常に前向きで、建設的でありました。
父は敗戦によって、帰るべき生まれ故郷・台湾を失い、母方のつてを頼って広島に引き揚げて来ました。
(中略)
 結婚はしたものの、お金も財産も家具もありません。家だけは恐らく海軍のつてで、大竹にあった海兵団の団長さんの家を安く借りる事が出来ました。(この家は私が生まれ育った家で、今でも良く覚えています。女中部屋も含めて座敷が六つ、廊下が二本、トイレが二つに台所と風呂場がある、かなり大きな家でした。築山に池もありました。)貧乏な二人には不釣り合いな大きい家に、ミカン箱一つの生活から、全ては始まったのです。
 広島県の職員録を作るお話を頂いたのは、そんなどん底生活の時でした。広島の町で広告を貰って来ないと出版できないのですが、広島までの汽車賃を出すと、もう市内での電車賃がありません。父は毎日足を棒にして広島市内を歩き廻ったそうです。弁当はじゃが芋ばかりでしたが、外地育ちのせいか文句も言わず、たまに鰯の一匹でも入っていたら、「今日の弁当は旨かった。」と言いながら帰って来たそうです。後に「殆どお金を家に入れてないのに、どうやって食べていたのか、不思議でたまらなかったが、聞くに聞けなかった。」と漏らしておりました。夜は母と二人で原稿の整理です。香取線香も買えないので蚊帳を釣り、裸電球の下、夜遅くまで精を出しました。いよいよ印刷発注に漕ぎ付けましたが、印刷代がありません。母が嫁入りに持ってきた着物も、頂いた広告費も、とっくの昔に食費に消えてしまっています。もし出版できなければ、詐欺になります。二人は印刷所に布団を持って行き、「これで何とか」とお願いしました。「信用貸しでいいよ」と言って頂き、やっと職員録が完成し、父は何とか窮地を脱する事ができました。
 様々な御縁に恵まれ、出版業が軌道に乗って来たかに思えても、生活は決して楽ではなかった想像されます。父は他人にお金をすぐ貸すのですが、返って来ない事が度々ありました。それでも父は、「あの人にもきっと返すに返せない事情があったんだ。返って来ないお金の事を考えたり、取り戻そうと考える暇があるのなら、その分新たに儲ける事を考えた方が良い。」などと言い、お金もないくせに気にする素振りも見せません。

お父さまとY.Matsumoto氏。
スタート当初の出版印刷有限会社の事務所前で(昭和30年ごろ)
(中略)
 私が物心付いた時、やはりまだ家は豊かではありませんでした。一人子ですから、母のおかげで私自身、何かに不自由したと言う記憶はありません。
(中略)
 白島に念願の自社ビルが完成したのは昭和42年の事でした。と言っても、土地は借地で、上物だけが自社物件でした。以後、約30年間に及ぶ白島時代が、D社の教育出版社として発展の時期です。しかし私が大学受験と進学の時期を迎え、勤務医を経て昭和61年に入社するまで、私にとって会社の記憶が少ない時期になります。ただ、昭和53年の創立30周年は盛大で、父も本当に嬉しそうでした。
(中略)
 最後に父の口癖を2つ記しておきたいと思います。「人の3倍努力したつもりでも、人から見れば『ちょっと頑張っているかな』と言う程度だ。」「人の世とは誠に不公平な物だ。懸命に努力しても報われない人もいる。極僅かだが、何の努力をしなくても運に恵まれる人もいる。大部分の人は、努力を必死になって積み重ねた上で、恵まれる運の大小が決まる。自分は努力もした。そして大きな運と良い人達に恵まれただけ、私は運が良いのだ。」
【現在、社長室内にあるもの】
【その他、社長室以外にあるもの(会社に関係するもの)】
【お父さまについて】